”踏み絵”で考える 自分自身へのウソ
自由民主党復党問題で、踏み絵というキーワードが取りざたされている。本来は、江戸時代隠れキリシタンを排除するために、キリスト像の絵を踏ませたということから来ている言葉。党への誓約書の提出が、踏み絵とされているようだ。
政治の話はしないが、この踏み絵... いろいろな状況を想像させられる。
・踏み絵を踏まないという個人の信条・信念。
・個人の信条・信念を犠牲にしてまでも他人に貢献するために踏み絵を踏む行為。
・個人の信条・信念を曲げてでも、踏み絵を踏んで得を取る。
・踏み絵を踏みたいが、周りの方からの理解が得られず踏むに踏めない。
・踏んでも、踏まなくてもどちらも地獄と判断して、踏む場合、踏まない場合。
・形だけは踏み絵を踏むが、信条は曲げずに矛盾を押し通す。
・踏み絵を踏むために、過去の自分の変化を作って踏む。
・踏み絵を踏むために、周りの環境を変えて踏む。
などなど
今回の復党を目指す議員たち、そして落選組みの人たちは、どんな状況なのだろうか。
今回の議員さんたちはさておき、結構身の回りでもこの踏み絵に近い状況(小さな踏む絵)というものは良くあるのではないかと思う。
・クライアント様との良い関係を維持するため、無償でサービス提供する。
・無用な契約トラブルを避けるため、全ての非を負う。
・将来の大きな受注のために、一時的な損失を負う(安価で受注する)。
・どうしても受注したくて、誇大表現する。
・自分の主張を曲げて、クライアント様の主張を受け入れる。
などなど
しかし、”こればかりは譲れない”というものを持った上での駆け引きであればまだ許せると思うが、そうではなく目先の利益のために行き当たりばったりでの判断では危険である。
一度踏んだ踏み絵は、その後に必ず影響が残るもの。相手から「昔はこうだったじゃない!」と永遠に引きずられたり、一度決壊したダムと同じで二度と元に戻せなくなるのが自分自身へのウソというもの。
自分自身へのウソにするか、信念を持った上での戦略にするかの分かれ道。この選択を軽視してはいけない。




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