見える化することは、責任を負うということ
よく見える化という言葉が、飛び交うようになりました。
今まで、「玉虫色」、「談合」、「いつの間にか」、「TOPの一声」「なんとなく」、「伝統」、「文化」などという言葉で覆い、物事を決めてきたこともかなり多い。
それを見える化することは、悪いことではない。正しいことかもしれない。
しかし、正しいからといって、得をするかどうかは別。この言葉も、正しいかどうかは分からない。というのも、人によって違うと感じるから。
見える化するということは、ある意味で責任を自分で負うということ。
責任を負える人には、いいことかもしれないが、責任を取りたくない人、取れない人にとっては、見える化は余計なことになりかねない。
すべて見える化しようとする人がいる。すべての人のためになると思ってのことだろう。理論上はそうかもしれない。でも、実際は迷惑な話だと思う人は少なからずいる。
どこまで、どの部分を見える化するか... これが大切。さじ加減!
特に、日本人は、見える化文化に合っているとは思えない。しかし、今のままが良いとも思わない。まさに、さじ加減。
相撲協会の動きを見ていて、大相撲が泣いていると感じる。
見える化が遅れているというよりは、隠し化の権化という実態がばれ、その悪の風習が露呈されたのだろう。
ここまでくれば、見える化という手法で改革が必要だろう。
しかし、ビジネスにおいて、特に中小企業では、見える化=正しいという方程式は成り立たない場合も多い。
かといって、それで良いとも言い切れない。
だから、企業経営は、難しいという言葉で勝手にまとめてしまう...




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